映画『アルマジロ』を通じて考える、「戦争」というリアリティ

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先日、映画『アルマジロ』を渋谷のアップリンクで見てきた。

この映画は、NATOが統率する国際治安支援部隊(ISAF)の一つ、アフガニスタンの最善基地「アルマジロ基地」に駐留するデンマーク軍の若い兵士たちの半年の軍務に密着したドキュメンタリーだ。アルマジロ基地は、タリバン勢力のすぐのところに陣をかまえ、タリバンの動きを監視パトロールし、タリバンによって被害を被ったアフガニスタン住民たちを救い、治安を安定させる。それがミッションの部隊だ。最前線とはいえ、そこまで実戦があるとは言えない場所かもしれない。だから、実戦経験もない若者も派兵され、半年の間パトロールに務める。

派兵されるのは普通の青年たちだ。登場人物の一人のメスは、戦争の現場に対して仲間とのつながりや絆を求めて参加したいと言うような青年だ。「辛い境遇を体験し、仲間と共有することで何かが得られるかもしれない。新しい自分に生まれ変わるかもしれない」。そんなことを考えていたのだろう。「なんとかなるさ、ちゃっちゃと行って、さっさと片付けて半年したら帰ってくるよ」。そんな思いを持っていたに違いない。

そして、それはおそらく多くの普通の人にとっても同じような思いをもつかもしれない。戦争を経験したことないし、みんなが言うほど大したこともない、すべては想定の範囲内だろう。そう思うだろうし、そう思うことしかできないのが普通だろう。そんな考えをもつ本人の気持ちとは裏腹に、家族は心配した顔で見送る。「なんで行くのか。できるから戦地に行かないでほしい」。そう母親は思う。けれども青年は出発しようとする。「無事に帰ってきてほしい」。その思いだけが家族の支えだ。

けれども、現場に着いた瞬間から青年の考えは一蹴される。そこは、これまで自分がいた生ぬるい平和な世界ではない。戦争の最前線だ。ちょっと間違えば自分が死ぬ。それまでぬくぬくと育ったところではなく、なにもない砂嵐がある世界。そして、いつなにが起きるかわからない世界。現地でできることといえば、みんなでポルノを見たり、気晴らしに川で泳いだり、ときにゲームをして遊んだり。しかし、どんなの戦争ゲームを経験してうまくやりこめたとしても、実際の現場とゲームがあまりにかけ離れていることにそこで気づく。

治安維持で派兵されているということは、おそらく現地の人にとって歓迎されているもの“だろう”と思うかもしれない。しかし、アフガニスタン住民からしたらありがた迷惑なものがある。勝手に来て勝手に畑を荒らして、そしてドンパチが始まれば爆破され家畜が死む。一番被害を被るのはそこに住む普通の住民なのである。たとえ治安維持が目的で来ているとわかっている人たちであっても、住んでいる人たちからしたらこれがリアルであり、治安よりも日々をどう生きていくかが最優先なのだ。それにはタリバンも治安維持部隊も関係ない。自分たちの住んでいるところ、自分たちがいる場所を荒らす人たちはすべて邪魔な存在なのだ。そうした、地元の住民の言い分もこの映画は汲み取っている。

それによって、治安維持が目的で派兵されている青年たちも「はたして自分がしている行為がどれだけ役にたっているのか。はたしてこれに意味があるのか」と問い続ける。しかし、現実はそんな問いに関係なく銃撃戦や実戦がいきなり始まる。上からの命令は、この基地を守りタリバン勢力がいたら戦えというのみ。衝突からは逃げることはできないのだ。

タリバン勢力と戦い、基地を保守することが目的。しかし、現地にいけば誰がタリバンか次第にわからなくなってくる。地元住民たちがグルになってタリバンを匿っているかもしれない。そうした疑心暗鬼にも苛まれてくる。しまいには、戦争と関係のない地元住民に怪我もおわせてしまう。それによって自分たちの存在意義が揺らぎ始めている。「なんで自分はここにいるのか」。しかし、そんな思いを考える暇もなく現実はやってくる。逃げてても仕方がない。どんなに逃げようとも、あるのは現実のみなのだから。自分がいまいることの意義と意味を問い続けようにも、そんな時間や猶予はない。

戦地での時間が長くなるにつれて、ただの一青年だった若者は半年の派兵によって兵士の顔になっていく。銃撃戦や実戦がいやがおうにも彼らを襲い、それらを経験することによって「やるしかない」と思わないといけなくなってくるのだ。それだけが自分たちがここにいる意味なのだ、と。

ある日に激しい銃撃戦が始まる。そこでタリバン勢力との大きな衝突が起こり、結果タリバン兵士を爆破する。そのことに対して、青年たちは大きな興奮と達成感を得る。「やった!タリバンを殺したんだ!」。そう叫ぶ兵士もいる。もちろん、殺らないと自分たちが殺られる。仲間が傷つき、倒れる横では早くこの現場を終わらせなければいけない。そう思ったとき銃を握り、背をかまえ、手榴弾を相手に投げつけるしか終わらせる方法はない。

同時に、世論からは軍隊がタリバン勢力を殺害したことに対するバッシングがきて、「人殺し」と揶揄される。登場人物のダニエルは、このシーンでも一つの重要なセリフを言う。

「部外者は鼻で笑って、俺たちのことを病んでるだの、人殺しだの言うだろうけど、俺は正しいことをやった。俺たちみんなそうだ」。

そう、このセリフは間違っていない。そして、このセリフの重みを理解できるのも現地にいた人間、もしくは戦争を経験した人間にしかわからないのだ。

普通の人はえてしてわがままな人間だ。自分たちの国が攻撃されれば復讐だ対抗して戦え、と言う。しかし戦って勝って人を殺したときは「人殺し」の烙印が押される。誰も人を殺したくて戦地に行っているわけでもない。けれどもそこにいたらそうせざるをえない。そうしないと、自分たちが死ぬんだから、そこには善も悪も関係ない。ただ、生きたいと思う人の気持ちだけが駆りたたせる。目の前の現実と向きあわなければ生きていけない。

半年の派兵も終わり、派兵された青年たちや部隊の一同は無事に帰国する。出発前に心配していた家族や恋人のもとに帰れる喜びを満喫する。けれども、どこか物足りなさが感じる。「なんで自分はいまこんなぬるい世界に生きているのか。そもそもとして、自分がいる世界はここなのだろうか」。疑問が頭をよぎる。あのヒリヒリした感触、死と隣合わせだからこそ感じる生きている喜びや快感。それは、一種の麻薬のようなものかもしれない。そして、派兵された青年たちの多くはまた戦地へと向かう。

この映画は、まさに戦争の現場をそのままに切り取ったものだと言える。戦争を知らない青年たちが、期待と興奮をもって戦地へ赴く。そして、自分がこれまでもっていた価値観が壊され、ただ目の前を生きることにだけ考える。そこは善も悪もなく、ただ目の前の現実から逃げられないという“現実”と向き合わなくてはいけない、ということを粛々と映し出している。

どんなに戦争のことを考え、知識をえようとそれはすべて机上のものでしかない。現地にいかないとすべてわからないものがほとんどだ。だからこそ、戦争の経験をしている人たちの言葉の意味は重たい。けれども、いまの社会の多くは、その“現実”をあまりに軽視している。なにかあれば戦争を仕掛けようとし、単純な机上の数字だけで何人派兵するとか、何人殺害したという数字だけしか追わない。けれども、その一つ一つの数字の中には、たしかに人間としての青年たちが存在する。それぞれに家族があり、それぞれにこれまですごした20数年の人生がある。それを戦争はいともたやすくなくすことができる。「戦争」というものがもつリアリティは、どんなに想像力を働かせようとも、机上だけで考えている人にとってはまったく現実として想像することができないのだ。

そして、ここで描かれているのは「兵士」という存在の虚しさだ。「なぜ戦わなければいけないのか。なぜ、いま自分がここにいるのか」ということを戦地に赴いた青年たちは問いかけ続ける。「戦いたくない。でも戦わなければ自分が死ぬ。だからやる。」そうした思いと経験を青年は考え戦地にいる。そのことをもっと多くの人たちは知る必要がある。誰も喜んで人を殺そうとする人なんていない。「兵士」という言葉の中にいる人たちは、自分たちとまったく同じ人間であり、多くは同世代の青年たちたちなのだ、ということを改めて理解しなくてはいけない。そこには、はじめから「兵士」というのはどこにも存在しない。戦争によって、「青年」が次第に「兵士」にならざるをえない状況を作り出しているのだ。

僕自身も、かつて陸上自衛隊の、長崎にある「西普連」というところに所属していた。一般的な自衛隊の部隊と違い、近隣国が九州や沖縄の離島を占有したときに対処するための「離島防衛対処部隊」というミッションを帯びた特殊部隊であり、日本初の海兵隊的存在として認識されている部隊の二期生として3年間仕事をしていた。そこでは、実戦を想定し、あらゆる状況に対処するための厳しい訓練がされていた(と思う)。ときに、3日3晩ひたすら山の中を駆け巡り、崖を登ったりしていた。

日本の自衛隊は軍隊ではない。けれども、仮に有事があった際は出動する気概と意識と覚悟をもって日々訓練していた。なにかが起きた際には、まっさきに現場に行き、自分の身を犠牲にしても国や仲間を助けるための誇りと覚悟をもって勤務していた。

僕が在隊していたときにはイラク派遣がまさにあり、安全地帯とはいえ『アルマジロ』の状況に近い現場を、仲間や同僚、上司などが出動していた。それもあってか、この映画を見てて感じるものも少なくない。おそらく、自分がもし現場にいたら、もし有事や戦争な場にいたら真っ先に引き金を引いていただろう。そうしないと、自分も死んでしまうし仲間も死んでしまう。今目の前におきている現実と向き合い、最大限の努力をしてその状況から打開するための方法を考えただろう。もちろん、僕も戦争に行ったこともないし現場の経験もない。そうした意味では、僕も普通の人と同じだ。ただ、訓練を多少してきたからこそ、自分もそうしただろう、という考えでしかない。

この映画が描くのは、「戦争反対」などではない。戦争が描き出す“現実”を描き出している。派兵している人がいかに兵士へと変貌するか。そして、それは別に普通の青年であってもそうならざるをえない状況が、戦争の現実なのだ。こうした現状を理解した上で、戦争という行為の重みを理解すべきなのだ。

だからと言っていますぐに戦争がなくなるとは思わない。いまこの瞬間であっても、世界のどこかでは銃撃戦や精神を研ぎ澄ましながらパトロールしている人たちがいることは間違いない。そして、それは自分とまったく同じ人間がそこにはいるということ。銃を向けている相手も、自分と同じ人間であり、彼らも彼らの正義において戦わなければ生きていけない、という状況が生み出した兵士たちだ、ということを考えなければいけない。

戦争は、長い歴史の中で繰り返し起きている。しかし、だからとっても戦争をしていいというものでもない。願わくば戦争がおきない世界にする努力を、互いにコミュニケーションをとりながら共存していくことを模索していかなければいけない。

どこか、戦争を経験していない人たちの中で、とくに日本において「戦争」を軽んじている人たちがいるならば、改めて考えてもらいたい。もちろん、経験していなくても、戦争についてしっかりと考え、懸命にそのありようを意識することはできる。また、教育訓練や鍛錬という意味においては、自衛隊などの教育システムは一つ機能するかもしれない。体力的な面も精神的な面においても、軍なり自衛隊としての経験は、一つの教育として機能することは間違いない。整理整頓から集団行動のありようまで、様々なことが経験できるのは一つだ。けれども、それと戦地や戦争を仕掛けてよい、ということはまた違う考えだ。戦争は何一つ生むものはない。あるのは、青年を兵士へと変貌させるシステムでしかないということを、この映画を通じ考えるべきものだと思う。

こうした戦争ドキュメンタリー映画を、願わくば多くの人が見て、なにか感じるものがあれば幸いだ。戦争というリアリティを感じ、そして考え続けること。それが、戦争を経験していない私たちがすべきものなのだから。

映画『アルマジロ』公式サイト http://www.uplink.co.jp/armadillo/

関連図書

僕が部隊にいた時代にまさにその部隊のことを密着で書かれたルポ書籍。出てくる人物のほとんどが知った顔というか、同僚とか先輩ばかりなのはちょっとおもしろい。けれども、日本の特殊部隊の現状などが描かれている一冊ではあると思う。


もう一つ関連で、戦争ものでは、第一次世界大戦時のドイツのことを描いたこちらの書籍もぜひ読んでもらいたい。戦争に駆り出されている一青年の、いたって普通な生活や日常の吐露を描いている。そして、この書籍、正直つまらない。けれども、最後の1ページがこの書籍の真の意味をもっていることが、読んでいて分かります。ぜひ、どういった内容かは読んで確認してもらいたい。

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