誰のためのオリンピックか

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「東京のオリンピックのことって、世界でどれだけ認知され、そして、期待があるのか」

そうした疑問を考えながら、果たして東京でオリンピックをする意義を模索する日々がずっと続いてる。

スポーツの祭典は、もはや国をあげた巨大なビジネス&ショーにもなりつつあるなか、オリンピックと連動してアートイベントも勃興している。

特に、近年では地域でのアートプロジェクトが展開されているが、このあたりは藤田直哉氏の『地域アート』でも指摘があるように、果たして地域にとってどのような効果があるのか、をきちんと考えていかなければいけない。

平田オリザ氏の『下り坂をそろそろと下る』 (講談社現代新書)では、ただの観光やインバウンドのようなカンフル剤的なものではなく、アートを軸としながらも、地域に文化を作り出すこと、そのためのヒト、コトづくりの視点をもりこみながら、成熟社会を迎えている日本が取るべき視点と行動を指摘している。

かたや、飯田泰之氏らがまとめた『地域再生の失敗学』 (光文社新書)でも、ゆるキャラやB級グルメ、地域の広報PR動画の是非、予算における費用対効果など、まちづくりの視点においても、膨大な予算をどのように処理するかという予算主義ではなく、地域と真に向き合い民間が主導することでのまちのあり方を指摘している。

こうした、東京を論じたり地域を論じたりすることが増えてきているいま、そこに住む人たちの見えない声を可視化していくことの重要性を感じることは多い。

インビジブルで連載をもっているネットTAMの「20万分の1のプロポーザル」の寄稿で菊池が書いているように、

「上からこうしろという考え方の価値の押し付けではなく、またオリンピックのためだけでなく、大多数を占める「ふつう」の感覚にあえて向き合う機会をつくることが、オリンピック後の東京のまちを守るための文化プロジェクトができる一つの手段だと思っている。住み続ける人が、オリンピックを後悔しないためにも、東京という社会システムにある多様であるべき価値観、この大きな文化事業をきっかけに、見直すことはできないだろうか?」

といった、オリンピック”後”を見据えたアクションが求められる。

当たり前だが、オリンピックがあろうがなかろうか、そこに人は住んで暮らしている。一時的な経済効果という餌に右往左往するのではなく、新たな幸せの指標を持った行動が私たちには求められる気がする。