「読まれなきゃ、詩だって、ただのゴミ」と叫ぶ『ミツコの詩』

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「ビッグコミックスペリオール」で第一話が公開されたときから、なかなか面白い作品がでてきた、と久しぶりに感じたマンガだった。そんなマンガの待望の単行本が発売された。

日々ロック』でロックの魂を描いた榎屋克優の最新作である『ミツコの詩』は、女子高生詩人のミツコと「現代詩」への痛烈な批評とともに、新たな詩の表現を模索する純粋なまでの熱量を読者に感じさせる作品だ。

女子高生詩人のミツコと、元詩人の国語教師の吹抜の二人が主な登場人物。吹抜は、かつて何冊か詩を出版したことがあるものの、売行きはさっぱりで詩人として食べていくことが難しく、国語教師をやりながらいつか詩の世界で成功したいといまだもがいている。ミツコは、詩人でありながらトイレの壁や教室の黒板、校長の車といった「紙以外」の何かに詩をぶつけている。時には、校舎の窓ガラスに口紅で校則に対する訴えを詩で綴る。

そこにあるのは「今さら紙に書いたって誰も読んでくれない。読まれなきゃ、詩だって、ただのゴミ」だと叫ぶミツコなりの新たな表現への渇望感から生まれてくるものだ。元詩人の吹抜は、どちらかというと旧態依然とした価値観の持ち主で、ミツコに対して「そんなのは詩じゃない、ただの言葉の暴力だ」と叫ぶ。吹抜は「紙に書かれたもの、本こそ詩の表現方法の最終地点。本の中の言葉こそ詩だ」であり、詩としての正統性があると考えている。

しかし、そんな吹抜に対してミツコは「そんな狭い世界で読まれても意味無い。あなたみたいな閉塞的な人間が、詩を殺した。詩に興味のない世間に、自分の”詩”をぶつけるんだ」と言い放す。この二人の価値観のぶつかり合いをもとに、現代詩が抱える問題や、後に続く「誌の朗読バトル」へと発展していく。

話は次第に「詩のボクシング」へとステージを移す。詩のボクシングとは、二人の朗読者が3分以内で交互に身体全身を使って自作朗読し、どちらの朗読が観客の心に届いたかを観客自身の投票による多数決で決めるものだ。

ミツコは、心の奥底にある熱い思いをパフォーマンスを伴いながらシャウトして観客を魅了する。そんなミツコを間近で見た吹抜は、ミツコ自身も詩のボクシングも「こんなものは詩じゃない。ただのパフォーマンスだ」と否定する。

ところで話は変わるが、詩のボクシングといえば1998年のねじめ正一と谷川俊太郎による詩のボクシング対決シリーズが動画で見ることができる。この動画を見ると、詩のボクシングがどういうものか感じ取ることができるだろう。個人的には、この3R〜5Rあたりを気に入ってる。

そして、谷川俊太郎、ねじめ正一の闘いの最後のラウンドは即興詩。二人のもつすべてが発せられたシーンの一つであろう。かつてテレビでこのような番組が放送されたこと、言葉の豊かさ、言葉と身体と使って表現しようとする詩人たちの生き生きとした姿がありありと映し出されている。

『ミツコの詩』に話を戻そう。周囲の誘いに乗せられ、自身が詩のボクシングのリングに立った吹抜。何も言葉も発せられず、恥をかかされた吹抜は、今度は現代詩の同人フリマに闘いの場所を移す。

詩を綴った同人誌を販売するブースが立ち並ぶその空間では、詩が好きな者たち、詩人同士が互いの作品について評価や批評し合うその空間を、吹抜は「詩のあるべき正しい姿、詩のユートピアである」と表現する。

まったくもって同人誌が売れないミツコの様子を、吹抜は勝ち誇ったように近寄り、ミツコの作品を見るやいなや、技法や比喩表現といったテクニカルなところばかりに目を向け、指摘し、ミツコを否定し始める。

そんな時、とある仕掛けを持ってくるミツコ。それは、「詩人限定」と書かれた野外用の簡易トイレボックスだった。中に入ると、便器の底に溜まった水のなかに死んでいるかのようなおもちゃの金魚を浮かべながら、フリマ会場を「窒息寸前のこの世界で」と揶揄した詩が書かれている。生ぬるい居心地がいいだけの場所をぶっ壊したい、と考えるミツコらしい表現である。

しかし、そんなミツコの表現を徹底的に否定する吹抜。しかし、フリマに参加している愛好家たちは、そこにあるアート性を読み解き、吹抜が思った以上に好意的に受け入れる。そこに落胆する吹抜。それは、詩を冒涜されたと思っているのではなく、自身が考える詩へのプライドが傷つけられただけだということに気づいていない。

そして、一巻のクライマックスである詩のボクシング、二回目。何度も朗読の練習をし、自分なりに完璧な詩の朗読を準備した吹抜。それなりに観客の心を掴んだという実感があるものの、対戦相手の身体全体を使った表現に対し、「文法も比喩表現もない、こんなの詩じゃない、けれども、相手に対して目が話せない」と感じる吹抜がそこにはいた。結果、敗北した吹抜は、自身の何がダメだったかがまったく理解できなかった。声量やテクニックな技量が足りないと考える吹抜に対し、「自分の言葉をなぜ大切にしないのか」と吹抜に問う。

リングに立つミツコに対し、じょじょに目や、耳や、身体全体で、観客に対して五感全体で詩を感じさせようと詩を読むミツコたちがいることに吹抜は気づく。言葉に、確かな熱を帯びて表現しようとする姿がそこにはあった。「詩の言葉も、相手に伝われなければ意味がない」と考えるミツコに次第に引き寄せられる吹抜。ここから二人がじょじょに和解し、これからどのような歩みをしていくのか。二巻以降、どのように進んでいくのか。期待とともに一巻は幕を閉じる。

読者を見失った現代詩の現状を批判するミツコと、現代詩の既存の価値観にこだわる吹抜との対立によって展開される同作品。さて、ここで問われている「現代詩」がはらんでいるものは、何も詩の世界のような文学だけに留まらず、あらゆる分野にも言えることだろう。コミュニティもしくは業界と呼ばれるものはときに閉鎖性を帯び、ジャーゴンが飛び交い、わかるやつだけがわかる、といった自身と他者との差異から優位性を保とうとする傾向にある。同人イベントの吹抜の姿と、既存の価値観に固執する吹抜。それに対して「あなたのような人が詩を殺した」と批判するミツコ。

「その業界を殺すのは、その業界の玄人だ」と言われることがある。一つの価値観、一つの様式にこだわり、新しい表現や可能性の蓋を閉じ、そこから脱却しようとしないまま、沈殿していくことは往々にしてある。ミツコの叫びは、まさにこの閉塞する現代詩状況と、「詩とはなにか」という難問に何らかの答えを見出そうとしている。『ミツコの詩』を読んでる読者それぞれが、ミツコの言葉から何を読み解き、何を感じるだろうか。