未完の想像と創造

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昨日、とある打ち合わせで「未完」についての話になった。

我々は、あらゆる企画でもついつい「完成」を目指しがちだ。がっちがちに企画を固め、キュレーションし、間違いがないための設計を作り上げる。その結果、想定された結果が出れば喜び、想定した結果にならなければ失敗だ、と思う。

もちろんそれはそれで間違いではないかもしれないが、どこか、想定外のことに対して目線がいっていないのでは、と思ってしまう。同時に、「完成」でなければならない、という強迫観念から少し解き放たれてもいいのではないだろうか。

完成されたものは、感動や感嘆はするものの、その先におきるものはない。けれども、未完は想像の余白、関わりの余白がある。未完だからこそ、そこにある穴や本来であれば完成されるべき部分を個々人が想像する。その想像の内容は十人十色で、一つとして同じ答えがない。その、一つとして答えがないからこそ、未完であることこそが、別の何かを引き起こすスイッチになるのではないか。つまり、未完であり続けることにも、一つの意味があるのではないだろうか。

ともすると、あらゆるものは未完で、たまたま、締切や何かしらの終わりがあるからこそ、そこに一つの終止符を打ったもの、とも言いかえることができる。作った本人としては不満であるからこそ、次の作品への創造力を掻き立てることすらある。

つまり、すべての作品は実は「未完」であると捉えることもできるかもしれない。そう思うと、すべての作品も、そこにどんな一手を加えることができるかを考えることができるのではないだろうか。

そこに、我々の創造に対する一つのヒントがあるのかもしれない。