テセウスの船

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アイデンティティの流れで、以前ブログで書評を書いた『アイコン的組織論』のなかで紹介されていた、とある神話についてを思い出した。

「テセウスの船」というギリシャ神話に出てくるパラドックスのお話だ。

英雄・テセウスがクレタ島から帰還した船を、アテネの人々はこれを後世に残すために、木材を修復しようとした。そこで、朽ち果てた木材を修復するのだが、しだいに新しい部品に交換していき、しまいには当初の部品は全てなくなった。まったく新しい船として修復されたこの船は、果たして「最初の船」と同じものと言えるのだろうか。というものだ。

この問題が哲学者にとっての議論の的となった。ある者はその船はもはや同じものとは言えないと語り、またある者は同じものだと主張する。

このパラドックスをもとにアイデンティティにおける同一性とはなにかを議論することができるのだが、『アイコン的組織論』のなかにおいては、会社という”船”のとそのアイデンティティのあり方として引用されていた。

あらゆる会社も、1人や少人数の創業者の熱意や夢から設立されたが、人の寿命を越えて会社という法人は維持していくなか、世代交代や、もっといえば社員が増えたり減ったり抜けたり入ったりしていくなか、何をもって会社という船はその会社たらしめるものとして、アイデンティティを維持することができるのか、ということでもある。

そこで出て来るのが、いわゆる「企業文化」といったものとして書籍のなかでは進んでいくのが、その企業文化という目に見えない価値、目に見えない文化を継承していきながら、それでいて時代の荒波のなかで技術を錬成し、製品やサービスを変えていきながらも、常に更新していきながらその会社”らしい”ものをつくりあげていく。仮に創業者や立ち上げメンバーがいなくなっても、会社の理念、DNAがメンバーに浸透していきながら、その組織があり続ける理由こそ、つまりは「アイデンティティ」こそが組織を維持するものである。

さて、それは人そのもので考えたらどうなるのだろうか。

人の細胞は常にいれかわり、この一瞬でさえもとある細胞は死に、とある細胞は生まれてくる。私自身を維持するものはなにか。そしてそれは、人を越えて、社会や人類そのもので見た時に、人間とはなにか、という壮大な議論にまで発展することができる。

そこでみていくのは、人の歴史と、人の継承性であろう。我々一人の個人の寿命は数十年で朽ち果てても、そこに残された文化が続いていく。あとに残る人たち、次なる世代に引き渡すものを考え、行動すること。継承性、つまりは心理学者のエリクソンが提唱する「generability」と向き合うことを、私たちは考えるべきなのではないだろうか。
さて、テセウスの船のパラドックスにはもう一つの命題がある。それは「置き換えられた古い部品を集めて別の船を組み立てた場合、新しく生まれ変わった船と置き換えれれた部品で集め直した船の、どちらが”テセウスの船”なのか」というものだ。これは、組織でいえば、仮に創業者や立ち上げメンバーが同じであっても、タイミングや時期、そのときの目的や方向性が違っても、中身は同じなのか、そうではないのか、というものともいえる。何をもって「テセウスの船」となるのか。この議論は、義体やアンドロイド、『トランセンデンス』のようなマインドアップロードなど、SFにおいても同じような議論がされてきた。

組織のあり方、人のあり方、モノがもつ価値と存在について、テセウスの船をメタファーに向き合ってみることができそうだ。

そういえば、テセウスの船といえばまったく同名の『テセウスの船』(東元俊哉)の連載が始まってる。この漫画の第一話の冒頭で、まさにさきほど触れた人の細胞について、まったく同じような内容が書かれながら、話を展開していくというもので、まったくの偶然ながらでびっくりしたものだ。

内容は、殺人犯の息子として過ごしてきた主人公が、父親が殺人を犯したと言われている時代にタイムスリップし、本当に父親が犯人なのかを探していくものだ。父親の犯行を止める、もしくは父親ではない真の犯人を探し出そうとする。タイムリープとそこで起きる平行世界のなかで、自己とは何か、自己の存在そのものを問おうとするもので、ストーリーとしてもなかなか面白く目が離せない展開となっている。同じタイムリープもので、『君だけがいない街』と類似する部分も多い(舞台も同じく北海道) が果たして。2017年に始まったばかりの連載だが、今後が個人的にも楽しみな一つだ。