映画「バンクシー・ダズ・ニューヨーク」とバンクシーが描き出そうとしているもの

BANKSY
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2013年10月1日から1ヶ月の間、NYで毎日行われたグラフィティアーティスト・バンクシーの作品公開。映画「バンクシー・ダズ・ニューヨーク」(2016年3月26日〜渋谷シネクイント、渋谷アップリンクほか全国順次公開作品)で描かれたその様子は、突如として始まったそのNY・イン・レジデンスは、毎日どこに作品が現れるかわからない宝探しと、作品を見つけた人たちによるソーシャルメディアを通じた一瞬の情報共有、そしてネット上を通じたさまざまなコミュニケーションなどが印象的だ。

バンクシーは、グラフィティに社会的な批評を盛り込んだ作品として知られているが、今回のレジデンス作品や一連の行動を通して、社会やアート業界に対する批評的な内容となっている。

バンクシーは、作品そのものによる批評性が高いことで知られているが、作品だけでなく作品とそれらを取り巻くものすべてを設計し、それらすべてで批評を行っているようにも思える。

イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」では、素人同然だった男が、グラフィティ・アーティストMBW(ミスター・ブレインウォッシュ)となるまでの軌跡を描いている。そこには、アートマーケットがもついびつな様子をシニカルさを感じさせる内容だ。作品がどこまでがドキュメンタリーでどこまでがフィクションなのか。はたまた、こうした考えを巡らせ、議論させること自体がアートに対する批評を行うものなのか。

バンクシーのグラフィティは、いまやオークションで高値がつく代物。数時間後には誰かがパクったり壁やドアを切り抜いたりしていく。「バンクシー・ダズ・ニューヨーク」でも、そうしたシーンは多く登場する。それを逆手にとり、路上で名も無きホームレスがバンクシーの絵を60ドル(オークション価格だと2万ドル以上!)で販売するも、誰も目もくれないというシーンも印象的だ。

作品そのものから拡張し、アクションや行動、思考にまでノイズを走らせることによって、世の中にある”当たり前”に疑問や視点を向けさせるバンクシー。「バンクシー・ダズ・ニューヨーク」では、もはやソーシャルメディアが当たり前になる現代における、狂騒曲を描いたものといえる。過去の自身の作品を引用しながら、グラフィティに自分自身も作品として参加し、その様子をTwitterやInsgagramにアップする。ソーシャルメディア上で写真が撮影されすぐさま広がっていくため、作品自体の絵柄やイラストは価値としては意味がないと思われるかもしれない。しかし、そこに刻まれた批評性のあるグラフィティはネットを介して無限に拡散されていく。グラフィティそのものの所在は不明であっても、そこに込めたメッセージは半永久的に残っていく。

作品の様子をTwitterやInstagramで投稿するものすべてが、彼の作品のメッセージを強く拡散させるものとして機能する。彼の手を離れ、そこに参加する人たち自身がそれぞれの思いやメッセージをもとに作品を投稿する。もちろん、そこにはポジティブなものもネガティブなものも含めてだ。映画でも印象的なシーンとして、バンクシーのグラフィティを追いかけようとする人たちが多いなか、バンクシーはスラム街のどまんなかにグラフィティを描く。日常では誰も寄り付かない場所にあるグラフィティ。けれども、生で見て自身で撮影(そして自身のソーシャルメディアで拡散し「いいね!」やRTを欲しい)したいと考える人が、そこに足を向けていく。地元の若者とバンクシーの追っかけをする普通の人たちが衝突するシーンは、それまで目をそらしていた街中の現実を私たちの眼前に突如として浮かび上がらせる。他にも、イラク戦争時の米兵の射殺映像を引用した作品や、屠殺を思わせるぬいぐるみを載せたトラックなどもある。

いとうせいこう氏は、バンクシーの”それ”を日本的な表現における「借景」であるとし、その土地に根付く文化や社会的背景を引用しながら、グラフィティに社会的な批評性を持ち込んだ表現をする、いわば「落首」的なものだと話す。(参照:いとうせいこう×大山エンリコイサム対談:ユリイカ2011年8月号)作品そのものだけでなく、その作品が置かれた場所やタイミングなど、土地の文脈を引用することで、作品そのものの意味を拡張させ、そこに隠されている文化的、社会的な問題を違った形で私たちに表現しようとする。

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本編に登場し、今回のバンクシーのレジデンスのきっかけに(おそらく)なっている5pointzに、私は2011年8月頃に訪れたことがある。グラフィティの聖地として言われ、多くのグラフィティアーティストたちが描いている様子を見ることができた。そのグラフィティの聖地と言える場所も、いまや市の都市計画で更地となっている。都市部におけるカオスさや混沌さを受け入れなくなることでのつまらなさを、バンクシーは批評するためにアクションした(のかもしれない)。日本においても、都市部でグラフィティを見ることが次第になくなり、クリーンで、清潔で、秩序あるような姿があるが、果たしてそれで良いのか、とも考えを持ってしまう。

BANKSY

3月25日に発売した週刊金曜日では、バンクシー特集を行いながら、今回の映画と連動してバンクシーが表現したかったもの、都市とアートの行方、そしてそこに住む私たちが考えるべき、文化のあり方について考える論考をまとめている。私も、海外におけるアートシーンや、都市とアートのあり方についての記事も書かせてもらった。

バンクシーは、常々言う。「僕は、99%の人たちのための社会変革をしたい」。そこには、私たち一人一人に対して世の中に対する問いを投げかけ、疑問に思ったことに対して自立的に考え、立ち上がり、行動することを促そうとする意思が垣間見える。映画やバンクシーの作品を見えて、笑ったり憤ったりする私たちのその様子が、結果としてそこに潜む問題を改めて浮き彫りにする装置でもある。第三者的な安全圏で見聞きし、笑みを浮かべている私たち自身が、その問題を作り上げている要因にもなっているということに気づいたとき、そこには笑いとは違った感情がこみ上げてくるはずだ。

アートがアートだけのものではなく、社会やさまざまな分野と接続しながら、世の中にある「問い」や「疑問」を想起させることで、目の前にある世界の「解像度」を高める装置となる。周囲に対する小さな問いを誰もが持ち、その問いを他者と共有していきながら対話や議論を行っていく。かつての共同体におけるパブリックを通じて民主主義が生まれたように、アートは誰もが社会に関わることができる余白を生み出そうとしている。アートをただ見て終わるのではなく、そこで考えた思考をもつ「態度」が私たちに求められている。社会に対して問いを立てることで生まれる、さまざまな可能性を私たち自身が気づくべきなのだ。