先日、夜遅くに帰宅しマンションの郵便受けで郵便物を確認していたところ、ガス料金の払込書が入っていた。「そうか、月末だしな」と思い、いつものように郵便を束ねて部屋へと戻っていった。
普段と変わらない日常の光景だったのだが、その日は少し違っていた。ふと払込書が入った封筒の裏を見ると、そこには下の階の人から「払込書が間違って私の投函口に入っていました。誤って空けてしまってすいません」というコメントが手書きで書かれた付箋が貼ってあったのだ。
よく見ると、ガスの払込書の封が切られていた。おそらく、その人は自身のガスの払込書だと思って封を空け、直後に誤りだったことに気がついたのだろう。そして、封が切られた封筒に払込書を戻し、付箋にコメントを書いて私の郵便受けに戻したのだろう。
たしかに、自分のポストに違った部屋の人のものが入っていたとはいえ、封を切っても払込書自体は無事なわけで、それをそのまま郵便受けにいれたり、封を切ってしまったけどそれはそれとしてそのまま郵便受けに入れても良かったかもしれない。人によっては、自分のじゃない、ってことで捨ててしまう人もいるかもしれない。
もとはと言えば、払込書を誤って投函した係の人にも非があるのだが、それはそれとして、自身が誤って封を切ってしまったことを素直に謝り、付箋にコメントしたものをわざわざ投函する行為それ自体が、なんだかそれは同じマンションに住んでいながら普段おそらく顔を合わせたことはないかもしれない隣人からのふとした「手紙」のように思えたのだ。
ちょっとしたミスと偶然が重なり、予想だにしなった人からの不意の手紙に、どこか喜びを見出した自分がいた。おかげさまで、ガス料金を支払った私は、少し日にちが経ってしまったが、お礼のメッセージを添えた手紙をその人の郵便受けに投函した。同じマンションなので、切手も必要ない。
ちょっとしたメッセージのやりとりだが、仕事とも違う、まさにプライベートな関係における、しかも普段ほぼ関わりのないであろう他者とのコミュニケーションが生まれた偶然。自分が投函した手紙に対して相手から返事がくるかどうかはわからないし、期待しているわけではないのだが、この一往復したふとした手紙によるコミュニケーションが生まれたこと自体に、他者とコミュニケーションすることの喜びや、「手紙」というアナログなメッセージが持つ手触りを感じた。
当たり前の日常、日々変わらない日常において、こうしたちょっとした出来事の一つひとつが持つ喜びをもっと受け止められるように日々を過ごしたいものだと思う出来事だった。