夫婦別姓という選択肢がある社会

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Change.orgで夫婦別姓についてのキャンペーンが行われていることもあり、署名サイトに書いた自身の考えをブログにも書いておこうと思う。

ぼく個人は夫婦別姓選択も、もっと言えば事実婚(フランスにおけるPACS的存在)も賛成派だが、後者は今回は問いていない。まずは、前者の夫婦別姓選択社会の構築が第一歩といえるだろう。ぼく自身が現状の結婚という制度に対して多少の懐疑的な目をもっているものの一つが現状の夫婦同姓的な慣習だ。

結婚という制度と、姓を含めた名前に関しては別問題だと考えている。姓は、その人個人のアイデンティティとしても結びついてるもの。その人が生まれたときから背負ったものを変更することは、つまりは変更される側のアイデンティティの剥奪ともいえる。

しかも、慣習的に女性が男性の姓になることが多かったのがこれまでの日本だ。つまり、男性側の家の名を継ぎ、嫁ぐというかつての価値観において機能していた風習といえる。

SNSにおける実名の動きもある程度一般化しつつあるなか、その人のアイデンティティそのものが問われる時代。また、フリーエージェントで活動する個人が増えてくるなか、職業名と戸籍名が違うことの齟齬も次第に多くでてきた(知人の多くも、職業名の姓と戸籍の姓が違い、Facebookで戸籍の姓になっていることや旧姓表示をするなど色々と煩わしいことも度々目にする)。

青野さんも指摘しているが、姓を変える側の社会的精神的な負担は大きい。私の男性の友人は、家庭のとある事情で戸籍における名字を変える手続きをしたのだが、その手間や社会的精神的な負担の多さに関してよく聞かされていた。これまで持っていた姓から別の性になることの自覚の持つづらさや、結婚だけでなく家庭きっかけに姓を変えることの大変さを身にしみたという。

もちろん、同性とすることで共同体における連帯感や生業・家業を継ぐことにおける意味はかつてあったし、それはいまもある。「襲名」など特定の分野においてその名が重要なものにおいては名を継ぐ、姓を変更するということはあるでしょう。しかし、それらの多くは芸名なり通り名だったりと、戸籍的な意味においての姓ではないはずだ。実名であっても、その家元を保つため、男性であっても女性であってもその家の名にすることに意味はある。(そんなことをちょうど先日ブログで書いたこともあるし、名前を継ぐこと、姓を変えることそのものを否定する気はさらさらない)

しかし、現代において自由恋愛・自由結婚が一般化している社会において、多くの一般家庭においてもはや形骸化している嫁ぐ・嫁がれるという感覚は一部の慣習としてか誰も理解していないだろう。

今回の署名は夫婦同性・別姓を選ぶことを訴えている。つまり、既存の、これまで機能していた夫婦同姓を廃止するのではなく、別姓という選択肢も付加することを訴えている。過去を否定しているのではなく、過去とは違ったオルタナティブを提示するものであり、個々の自由を担保しながら、それぞれにおいて、同性したい者、別姓にしたい者それぞれの価値観を尊重するものといえる。

ぼく自身の価値観を誰かに押し付けることはしないが、可能性と選択肢が広がる社会に少しでもあってほしいと願うばかりだ。

▲Change.orgのキャンペーン
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