始める一歩と終わるデザイン

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「まずは始めろ」といった言説がある。ベンチャーの人たちの間では「リーンスタートアップ」のように、スモールスタートで始めながら仮説検証を踏まえて修正し、ニーズを把握しながら展開させていくようなこともまさにその一つだろう。普段の仕事でも、起業家や経営者に話を伺っていつも出る言葉の一つには「まず始めろ」といったものがある。

たしかに、何かを始めること、一歩を踏みしめることを評価することは私も大筋では賛成だし、やらない後悔よりも実践したことを通じて得られる経験は何事にも代えがたい。

しかし、始めたものが永続するということはなく、ほとんどの行為には終わりがあることに対して、果たしてどれだけの人が意識的になっているだろうか。もちろん、始める前から終わる時のことを知ることはできない。始めたことがきっかけで、自分が思ってもみなかった方向にシフトしたり、当初の予定から離れたことになることもしばしばあるだろう。起業もそうだし、プロジェクトや団体など、何かを立ち上げたり始めることが起きる影響は少なからずある。ようは、その結果生まれたものを踏まえつつ、ある程度の節目や区切りがついた時に、しっかりと終わりを迎えさせることができるかどうか、ということだ。

サービスであれば、技術の進歩といった時代の移り変わりによって、ユーザーにとっての役目を終えたものをたたむ準備をしたり、ある一定の目標に向かって走りだしたプロジェクトは、目標を達成したことをきっかけにきちんと終わりを迎えさせられるかどうかだ。

「終わりよければすべてよし」という言葉があるように、どんな終わり方をしたかをきちんと見届けることが大切だと最近感じる事が多い。後腐れなくしっかりと相手との関係に対してきれいにするという意味では、恋愛でも同じことが言えるだろう。始めたものの責任を、しっかりと全うするためにも、「終わるデザイン」をきちんと考えることに意識的にならなければいけない。

これは、けじめとも言われるようなものかもしれない。もちろん、終わるデザインをどう考えるは人それぞれかもしれない。ある意味、個人それぞれの美学にも関わってくるだろうが、僕はできれば大事にしていきたい。

今年あったイベントでも、象徴的なものがあった。あるイベントで、2003年から続く活動が10年を迎える中、10年という節目を踏まえてどう考えるかというトークのイベントだ。その中で、いまや全国的にも広がりを見せた活動を運営されている方が、「事務局は少しづつ縮小していて、最終的には事務局も無くしてWikipediaだけで動けるようなものになれたらと思う」といったことを言われていた。つまり、もともとの活動の概念が広がり、誰もが当たり前に広がってきた中で事務局として機能を集中させて活動するのではなく、活動の経緯や思いなどをアーカイブし、そして理念に共感した人はだれでも参加できるオープンソース型の活動として、事務局的組織から脱却したいということだった。10年を迎え、活動が全国に広がってくる中、組織としての有用性の判断の中で無くすことを決定したのだろう。

運営事務局を残すことが目的ではなく、本来の目的としてある程度達成したら、その組織があり続ける理由もない。特に、会社でなくNPOやキャンペーン的な活動であればなおのことだろう。こうした判断をできることが素晴らしいと思う。目的と手段をきちんと持ち、本来持っていた目的が達成されたならばきれいに終わりを迎えさせる。仮にその事務局の活動自体が終わっても、活動によって広がった考えは、さまざまなところに残っている。その息吹を感じた次の世代が、また新しい活動を始めるきっかけとなればよいのだ。

10年以上も継続している賞やイベントなんかは、時に形骸化を招いているものも多い。もちろん中身をしっかりと吟味し、時代の変化に対応するような意識を持ったものであれば別だ。しかし、権威だけが肥大し、内実と外身が乖離してしまうようでは意味がない。本来あるべき讃えられるものやイベントの冠として意義のあるゴール設定になっているのかどうかが、その賞やイベントを名誉なものとして保ちつづけることであり、その矜持を持つことこそが求められるものでもあるべきだ。

2013年という年自体が、そうしたさまざまな活動が節目を迎える年でもあった。インターネットが誕生して20年、携帯が普及し、デジタルの活動の認知が高まり、SNSやブログなどが登場したことで、この10年という中でさまざまな出来事が飛躍的に広がってきた。

このブログは、2013年大晦日に書いている。もちろん、2013年から2014年になっても前と何も変わらないし、同じようにまた朝日が上って日が沈むだけかもしれない。しかし、多くの人は2013年を総括し、新たな夜明けとともに2014年を迎え、新しい気持ちで次の行動へと移そうとしている。そういう意味でも、年月というのも一つの節目でありけじめをつけやすいものかもしれない。心機一転、始めの一歩を迎えると同時に、それまでの振り返りをしつつ締めるところは締める、そんな気持ちが働いているのだろう。

2013年は、私自身のことを列挙すると長くなるので割愛するが、さまざまな社会の動きの中で、自分自身の立ち位置を作る年でもあった気がする。同時に、個人だけでなく、チームや組織の重要性も改めて感じた一年でもあった。2014年は、その動きを踏まえながら転換の年になるかもしれない。2014年には、30歳を迎える年でもある。30歳というのも一つの節目。自分自身としての身の振り方も、見つめなおす年なのかもしれない。

同時に、2013年は多くの諸先輩方が故人となった年でもあった。まだ逝くには早すぎた年齢の方々ばかりだった。私自身がまだお会いしたことなく、いつかお会いしてそのお考えを伺いたいと思った人たちも多かった。身近な方で、素晴らしい活躍をされた方々も多かった。もうお会いする機会がなくなることを知るたびに、彼らから何を引き継げたのかを考えている。彼らがまだやり残したこと、そして伝えたかったことを残った私たちが考え、そして次につなげていくようにしていかなければいけない。そして、彼らが安心して見届けられる様になった時、きちんとその終わりを迎えさせるためのデザインをしていくことも考えないといけない。

時代というのは、常に創造と破壊の繰り返しだ。新しいものが常に生まれ続けていくからこそ、時代が作られていく。しかし、時代を作る人も世代が交代されていく。かつて時代を作った人も、常に時代を作る人間にはなれない。次の作り手に対してバトンに渡すべきだ。そのバトンをきれいに渡し、自分の身をきれいに引くデザインができるかどうか。引き際の美学こそ、かつての日本人は持っていたはずだ。そして、バトンを受けたものは、きちんとそのバトンをゴールまで辿り着けさせるための努力をしていかないといけない。それこそが、バトンを継いだものの責任でもあるのだ。

国や社会も、常に前進し成長していくだけがすべてではない。ダウンサイジングしていくべきものを真っ向から受け入れ、急降下ではなく軟着陸していくためのデザインが求められている。数年後、そして数十年後を見越しながら、そうした中長期的視点の中でどう終わらせるためのデザインをしていくかは、成長や拡大とは違った視点でものを見ていかなくてはいけない。もちろん、新しい息吹や活動も同時に動き出している。その新しい動きを疎阻害させないためにも、一つの時代に対して区切りをつけ、次の時代への仕組みのアップデートをすることが求められているということを、きちんと認められるようにならなければいけない。

始める一歩だけではなく、終わるデザインにこそ今こそ目を向けるべきなのではないか。これを2014年を考える一つの考えということを記して、2013年を締めたい。

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