名を継ぐこと

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NHKで歌舞伎の名門、高麗屋の三代同時襲名のドキュメンタリーが放送されていた。

九代目幸四郎改め二代目松本白鸚、七代目市川染五郎改め十代目松本幸四郎、四代目金太郎改め八代目市川染五郎が1月2日に歌舞伎座で三代同時襲名披露を行うというもの。2日の舞台を3日のテレビで放送するとは、NHKの人もなかなかに大変な番組を正月早々やってるな、と。

この「襲名」というものは歌舞伎や能楽、落語の世界(最近ではマンガ『昭和元禄落語心中』でつぶさに描かれたこともあり、知ってる人もいるだろう)では見かけるものの、普通に生活している人にとってはなかなか縁のないもので、「名前を継ぐ」ことそのものの価値をどう受け止めていいのか、と思うだろう。

名前を継ぐことは、どういうことか。親から子へ、時には、血の繋がっていない者がその同じ名を継いでいく。それは、自身の名前とは別の名前を背負うことであり、自分が生きてきたそれまでの人生の幅を越えた「何か」を背負うことでもある。「これまでの市川染五郎ならばどう振る舞ったか」「松本幸四郎らしい芸とはなにか」と常に向き合いながら、始祖から続く人らに敬意を評し、その名前に恥じぬよう精進する。自身の身体や人生を、自身だけのものではなく、過去から現代へと続く継承の道を歩み、そして新たな道を開拓することである。

NHKの番組内で七代目染五郎(現、十代目松本幸四郎)が「父は越えられない存在」と語っていた。どんなに芸を磨いていても、先人とまったく同じものを作り上げることはできない。もし、仮にそれができたとそれは、襲名し名前を継ぎ、新たな芸を作ることではなく、ただ同じものを完コピするだけである。だからこそ、先人との同じ道ではなく、自身の道を歩む。そこにある新たな創造性が、先人がこれまで作り上げてきた名の文脈を踏襲しながら、さらに新たな道がひらかれていく。名前を継ぐことは、これまでの道を継ぎつつも、次なる未知を歩みながら開拓し続けることでもある。そして、そこで生まれた道が、次なる名を継ぐものへと受け継がれる。それはまるでバトンを渡すリレーのように。

けれども、そうした感覚はなかなか普通の人は持ちづらいかもしれない。自分は自分であり、それ以上でもそれ以下でもないと思うのが一般的だろう。けれども、よくよく考えてみれば、自分が生まれるには両親がいて、その両親も誰かの子として生まれてきた。過去の人達から受け取った有形無形のあらゆるものが、今の自身を作り上げている。そして、自身の振舞いがこれから続く次世代にさまざまな形で受け渡されていく。名前を継ぐことは、そうした道を確かなものとして継承していくものの極地だが、我々も実は気づかぬ内にあらゆるものを継承していることにもっと自覚的になるべきなのではないだろうか。

自分はどう考えて世の中に行動し、後から続く者たちになにを残そうとしたか。自分の人生は1人ではなく、誰かとともに同時代を生き、過去の人達から引き取ったものと、これからの未来に残すものと向き合いながら、成すべきことをやっていこう。